宛先だけは知っている
本棚に、まだ開いていない本がある。買った理由は覚えている。帯の一文が気になった。好きな書き手が紹介していた。書店で数ページ読んだら、その日の自分に必要なことが書かれている気がした。
それなのに、家では読んでいない。本を買った日の私は、読める日の私に仕事を渡したらしい。受け取り手も自分だから、苦情の行き先がない。
積読を「未来の自分への手紙」と呼ぶと、少し救われる。ただ、この比喩は便利すぎる気もする。未来という宛先には、いくらでも荷物を送れてしまうからだ。
買った日の熱は、同封されていない
書店で欲しかった本を、家ではそれほど読みたくなくなることがある。あの棚の並びや、外の雨や、帰宅するまでの時間ごと、その本が欲しかったのかもしれない。
後日、机に置いてみると、本だけが残っている。買った日の熱まで自動的に保存されるわけではない。今の自分は別の問題に気を取られていて、ページの向こうから呼ばれている感じがしない。
それを意志の弱さだけで説明すると、本棚は未処理の仕事が並ぶ場所になる。目が合うたびに、まだですか、と催促される。せっかく好きで買ったものに監督されるのは、あまり愉快ではない。
買ったことは、その日の興味の記録として受け取っておいてもいいと思う。読むことまで同じ日に約束した、と決めなくてもいい。
遅れて分かる宛名
何年か前には読み進められなかった本が、急に読めるようになる。その変化を、知識が増えたからだと説明できる場合もある。でも、単に生活が変わっただけのこともある。
誰かを待つようになってから、待つ人の描写が目に入る。引っ越したあとで、家についての文章が気になる。同じ段落なのに、こちら側に受け取る場所ができている。
本が私の未来を知っていたわけではない。それでも、過去の自分が選んだ本に現在の自分が助けられると、少し妙な気持ちになる。あのとき何が気になって手を伸ばしたのか。理由を忘れていても、選んだという事実だけは残っている。
未来への手紙というなら、本文は作者が書いて、封筒を選んだのが過去の私なのだろう。開封する時期だけ、まだ決まっていなかった。
届かない手紙もある
ここまで書くと、積んである本は全部いつか役に立つ、という話になりそうだ。そこまでは言えない。
興味が戻らない本もある。買うことで満足した本もある。読んでみたら合わず、そのまま閉じた本もある。手に取った過去の自分を尊重するために、今の自分が全部を読み終える必要はないと思う。
棚の場所にも、お金にも限りがある。未来の自分は今より暇で、今より元気で、今より集中力があるはずだと見積もっていると、ずいぶん負担をかけることになる。未来の私にも、読みたい新刊くらいあるだろう。
だから、ときには宛先を変える。誰かに譲る。手放す。買った日の関心を否定するのではなく、その関心がもう別の場所へ動いたと認める。空いた一冊分の隙間を見ると、少し呼吸がしやすくなる。
一冊を、用事にしない
積読を減らすために読むと、読み終えた冊数ばかりが気になりそうだ。残り何ページ、あと何冊。ページをめくるたびに在庫を処理している感じになる。
その代わり、今日は一冊だけ棚から出して、目次を見てもいい。前書きだけ読んで戻してもいい。最初から最後まで読む予定を立てずに、気になった章を開いてみる。
それで数ページが面白ければ、しばらく読めばいい。今ではないと思ったら、戻せばいい。本に近づくたびに、完読という契約を結ばなくてもいいはずだ。
ただ、何も読まないまま「いつか」を言い続ける自分も知っている。だから一冊を机に置く。その日の視界に入る場所へ移す。壮大な読書計画より、手を伸ばせば届く距離の方が頼りになる日もある。
開封日は、今日でもいい
本の間から、古いレシートが落ちてくる場面を想像する。そこに書かれた日付だけでは、その日の自分が何を考えていたかは分からない。けれど、この本を買って帰る時間があったことは分かる。
その人は、今の私に何を読んでほしかったのだろう。そんなふうに思って開くと、積読が少し違って見える。
手紙という比喩は、積み上げる言い訳にも、読み始めるきっかけにもなる。できれば後者として使いたい。今日の自分に届きそうな一冊を選んで、数ページだけ読む。
返事は、読み終えてからでなくてもいい。余白に短く鉛筆で書く。「今なら、少し分かる」。それで過去の自分との往復が始まる。

