説明が終わると、問題まで片づいた気になる
たとえば、書きかけの文章をAIに読んでもらう。
「なぜ、ここから先が書けないのだろう」と聞いてみる。すると、完璧を求めすぎていること、読者を意識しすぎていること、主題がまだ定まっていないことが順序よく並んで返ってくる。
どれも思い当たる。
小見出しまで付いていると、自分の散らかった机を、知らない間に片づけてもらったような気分になる。なるほど、それが原因だったのか。さっきまで言葉にならなかった停滞に、名前が付いた。
ところが元の文章へ戻ってみると、やはり次の一行が書けない。
説明を読んでいる間だけ、問題を外から眺められたのだろう。座り直せば、机の上には同じ原稿がある。気分が軽くなったことは確かだ。それと、原因が分かったことを、私はいつの間に一緒にしたのだろう。
私の事情を、どこまで渡しただろう
「完璧を求めすぎている」という説明は、便利だ。
書けない人の多くに当てはまりそうだし、言われた側も、自分は雑に済ませたくないのだ、と少し慰められる。でも、実際の原稿を見れば事情は違うかもしれない。前の段落で言い切ったことを、次の段落で否定しようとしている。知らない事実を知っているふりで書き進めて、とうとう逃げ道がなくなった。単に眠い。そのどれでも、手は止まる。
AIに渡したのは、原稿の一部と「書けない」という短い相談だけだったとする。
そこから私の性格まで見抜かれたと思うのは、いささか話を急ぎすぎている。返ってきた説明に、自分で残りの事情を足して読んでいる可能性もある。それらしい答えの居心地のよさには、こちらの協力もあるのだと思う。合うところには大きくうなずき、合わないところは読み飛ばす。自分についての文章を読んでいるつもりで、自分に合う文章へと読み替えている。
上手な語り手の前で
小説を読んでいると、語り手の説明にすっかり乗せられることがある。
本人の言い分を聞いている間は筋が通って見えるのに、別の人物の一言で、急に足元が怪しくなる。語られなかった出来事が、説明の外に残っていたのだ。
そこへ戻って読み直すのは面白い。嘘を探すというより、何が選ばれ、何が省かれたのかを見直す。誠実そうな口調も淀みのない順序も、その人の言い分を分かりやすくする。だからといって、出来事の全部がそこに入るわけではない。
AIの返答を小説と同じものだと言いたいわけではない。ただ、文章を読むときの自分の癖は、画面が変わっても付いてくる。話の運びがよければ、途中の飛躍に気づかないまま終点へ着いてしまう。
ぎこちない説明なら疑うのにきれいな説明だと疑うのを忘れる。内容を確かめる前に、文章の上手さに一票入れている。文学好きとしては、ここは少し痛いところだ。
どの一文から、そう判断したのか
返答を疑い続けるのも疲れる。毎回、反論を用意して会話したいわけではない。だから、納得しかけたところで一つだけ聞き直すなら、こんな問いがよさそうだ。
「私の原稿の、どの一文からそう判断したのか」
「もっと詳しく説明して」だと、説明が立派になるだけかもしれない。「別の可能性は」と聞けば、候補が増えて選ぶ仕事がこちらへ戻ってくる。それらも役には立つが、今見たいのは返答と原稿が実際につながっている場所だ。
該当する一文が示されたら、自分でも読み直す。そこから本当に言えることなのか。別の読み方はできないか。示せないなら、その説明は一般的な見立てとして受け取る。そのくらい距離を決められると使い道も考えやすくなる。
もちろん、引用された一文があれば安心というわけでもない。引用の存在と、そこから導いた判断の妥当さは別々に見る必要がある。この小さな確認をAIに全部任せてしまうと、説明を保証する説明がもう一つ増えるだけになる。
一段落に戻れる答え
原稿を見直してみたら、書けない原因は前の段落で無理に結論を出したことだった。
そういう場合を考えてみる。
「必ず」と書いた言葉を消す。言い切れなかった事情を二行足す。
すると、次の段落へ進める。性格の問題にまで広がっていた相談が、数文字の修正で動き始めることもあるはずだ。
最初の説明がまったく無駄だったとは思わない。誰かに相談する形を取れたことで、原稿をもう一度開く気になったのかもしれない。ただ、慰めとして受け取ったものをそのまま診断結果のように扱いたくはない。
私が欲しいのは、自分を見事に言い当てる文章だけではない。読んだあとで自分の一段落に戻ってこられる答えだ。
「なるほど」と打ち込みかけて、少し止まる。代わりに問題の段落をもう一度貼る。
今度はここを、一緒に読んでもらおう。


